第一話 梅乃
一八八一年 吉原 仲《なか》の町《ちょう》
「花魁《おいらん》、通ります」 三原屋の禿《かむろ》が大きな声を出す。
派手な着物に、高下駄《たかげた》を履《は》く。
そして大きな傘の下、繰《く》り出す足は外に半円を描くように引きずる。
花魁の外八文字《そとはちもんじ》という歩き方である。
顔は白く塗り、大きな瞳に淡い桃色のシャドウ。
薄い口元に、小さい紅が美しさを引き立てている。
こうして店の外にある引手茶屋《ひきてちゃや》まで客を迎えに行くのだ。
引手茶屋とは、規模の大きい妓楼《ぎろう》に対し、遊女《ゆうじょ》の予約をする茶屋の事である。
客は引手茶屋で指名をし、ここで指名した遊女が迎えに来てから妓楼に行くシステムとなっているのだ。
この花魁こそが主人公である
“三原屋《みはらや》の梅乃《うめの》 ” 吉原の梅乃花魁である。
梅乃が花魁を襲名《しゅうめい》し、吉原の街を練り歩く姿は遊郭をアピールする絶好の機会であった。
梅乃は二十歳にして、老舗妓楼《しにせぎろう》『三原屋』の頂点になる。
そんな伝説、梅乃花魁の物語である。
一八六九年 吉原の春。
妓楼がひしめく吉原に、多くの遊女が在籍する店がある。
ここ、三原屋である。
三原屋は吉原、江戸町一丁目にある大見世《おおみせ》である。
そんな三原屋は、早朝から一日が始まる。
「こら、梅乃! しっかりなさい」
「すみません……姐さん」 そう言って、頭を叩かれていたのは梅乃である。
梅乃は八歳。 まだ子供である。
梅乃は三原屋に来て一年、つまり七歳の時から妓楼で働いている。
子供の頃から妓楼で働く子供は少なくない。
家が貧困で売りに出される者……身寄りが無く、拾われた者などだ。
「姐さん、良い天気です。 ほら!」 梅乃は窓を開け、青空を見せた。
「あぁ……いい天気でありんすなぁ」 梅乃は、教育として花魁の傍《そば》で作法を学ぶ。
その教育係が、
“三原屋の花魁、玉芳《たまよし》である ”
玉芳は、老舗妓楼の花魁を八年間 勤め上げている。
そして、梅乃は玉芳の付き人のようなことをする。
これを禿《かむろ》と言う。 つまり見習いだ。
「梅乃もここに来て一年だろ? まだ慣れないのかい?」
玉芳はキセルを吸いながら梅乃に小言を言う。
「すみません……」 そう言って、バタバタと走り回り仕事をしている。
梅乃の仕事は、玉芳の部屋の掃除をして身の回りの世話をすることである。
「ふう……」 梅乃は額の汗をぬぐい、部屋が綺麗になっているか確認をしていた。
「梅乃……火鉢《ひばち》の灰も綺麗にしておくれ」
こうした毎日を過ごしていた。
当然ながら休日というものは無い。 毎日の飯代が、毎日の奉仕ということである。
この玉芳には禿が四人いる。
梅乃の他に三人がいる分、仕事量は多い訳ではない。
「それでさ……」 普段の話し相手であったり、愚痴《ぐち》を聞かされるのも禿の仕事であったりもする。
普通は、禿に厳しくして教育するのが先輩なのだが、玉芳は違った。
分け隔《へだ》てなく禿と話し、笑顔で接してくれる花魁である。
まだ子供の梅乃には、玉芳の懐の深さを知るには早かった。
玉芳の禿をしているのは四人であり、一番のお姉さん格になるのが菖蒲《あやめ》である。
菖蒲は十三歳。 そろそろ客を取る準備をしなくてはならない頃である。
そして二番目。 勝来《かつこ》は十二歳で、元は武家の家柄であったが、父親が失脚して奉公《ほうこう》に出されたと聞いている。
三番目は小夜《さよ》。 梅乃と同じ八歳であり、小夜と梅乃は親の顔を知らない。
二人共、吉原《よしわら》大門《おおもん》の前に捨てられていたと店の主から聞いていた。
そんなことから仲が良く、小さいながら励《はげ》まし合い玉芳の所で勤めている。
梅乃など、禿の仕事は不規則である。
江戸の朝は早く、利用客のほとんどは現在の朝の六時には妓楼から帰る客ばかりである。
そして妓女が、利用客を見送る『後朝《きぬぎぬ》の別れ』を済ませる。
これは花魁が使うテクニックで、朝の見送りの際に『別れを惜《お》しむ』ことである。
アッサリと帰したのであれば、次の指名は無い。
『また会いたい……』と、思わせる為の見送りである。
梅乃や禿は客の帰り支度などを手伝い、客が帰るときには花魁の後ろで頭を下げて見送る。
こうして豪華な ひとときを演出させている。
そして客が帰ると
「ほら、掃除して」 玉芳の声で、梅乃は走って玉芳の部屋を掃除する。
掃除が済むと、玉芳は仮眠に入るためだ。
「姐さん、終わりました」 梅乃は玉芳に声を掛けると、
「ご苦労さま」 そう言って、玉芳は布団に入った。
そして、仕事を済ませた禿たちは朝食を済ませる。
朝食と言っても、白米と少々の菜食。 実に質素ではあるが、親から棄てられた子供や借金の肩代わりとして売られた身分にしては有難いことである。
「ガッ ガッ」 威勢よく食べる梅乃は、細身ではあるが食事の大切さを知っている。
捨て子だった子供が、食べられるだけでも有難いからだ。
そして、誰よりも早く食事を済ませて花魁の様子を見に行く。
“コソー ” 花魁、玉芳の部屋の襖を少し開ける。
(寝てるな……) 梅乃は、玉芳の就寝《しゅうしん》を確認すると、三原屋の店前の掃除を始める。
「毎日、ご苦労だね」 そう声を掛けるのは、三原屋の主である
三原 文衛門《ぶんえもん》である。
「おはようございます♪」 梅乃は元気に挨拶をすると、文衛門は梅乃の頭を撫でた。
「梅乃、外の掃除が済んだら次は中の掃除だよ! 急ぐんだよ」
文衛門と話しをしていると、口うるさく言ってくるのが
三原 采《さい》。 文衛門の妻であり、経営の達人である。
文衛門が吉原を訪れた時、采と出会い一緒になった。
そして、小さな見世(店)から数年で大見世にまで出世させた伝説の婆《ばばあ》である。
そんな采は厳しさでもプロフェッショナルである。
「中の掃除を済ませたら、次は風呂の準備だよ!」
とにかく禿は大変である。
正午になると、 “昼見世《ひるみせ》 ”という昼間に店から顔を出し、夜の為に宣伝をする妓女の勤めがあるからだ。
そこで、風呂や髪結《きみゆ》い、化粧の手伝いをしながら勉強をするのだ。
梅乃も勉強の為、毎日の手伝いが当たり前となっている。
「いたたたっ! そうじゃないよ! このハナタレ!」
不器用な梅乃が髪結いの手伝いをすると、妓女から文句を言われるのも日常であった。
「すみません、姐《ねえ》さん……」
「アンタ、玉芳姐さんの禿だからって、私には手を抜いているんじゃないだろうね?」
「そんな事……本当にすみません」 梅乃は謝るばかりであった。
しばらくして、 「グスッ……」 梅乃は泣いていた。
その頃、玉芳は目覚めて、二階にある自室から一階に降りてきた。
「おやおや……?」 玉芳は、泣いている梅乃を見つけた。
「梅乃、どうしたんだい?」 玉芳が声を掛けると
「花魁……なんでもございません」 梅乃は涙を拭いて、走って次の仕事に向かっていった。
「……ふん」 玉芳は息を吐きだし、昔を思い出していた。
玉芳も禿の頃は、よく姐さんたちに当たられていた。
“ある意味、伝統である ”
良くも悪くも妓女の伝統である。
玉芳は自身が苦労をしてきた分、そういう人間にはなりたくないと思っていた。
「お前は優しいのか甘いのか……それでよく花魁になれたものだね……」
玉芳に言ってきたのは采である。
いくら花魁でも、采の言葉には逆らえない。
「いえ、何も……」 そう言って、玉芳は自室に戻っていった。
しばらくすると
「花魁、失礼しんす……」 菖蒲が玉芳の部屋に来た。
これは、今日の予定を任されている為である。
基本的に、花魁は昼見世には参加しない。
夜の予約で稼ぎは十分だからである。
花魁とは、体を売るだけが目的ではない。
初見《しょけん》の客では、なかなか指名など出来ないのだ。
料金も高く、現在の価格だと 一晩、百五十万から二百万は掛かると言われている。
それも、初めての客となると『顔見せ程度』で済まされる。
酒宴《しゅえん》やチップなどを出して終わり、二回通うと「主《ぬし》さん」と呼んでくれる。
そして三回になって、初めて名前で呼ばれ部屋に通されるのだ。
また、花魁に嫌われたら二度と会えないくらいとなる。
そんな高貴なのが花魁であり、妓女は花魁を目指しているのだ。
「……して、今日の予定でありんす」 菖蒲は予定を伝え、準備を始める。
「菖蒲は真面目だね~」 玉芳は、大きく息を吐くと
「当然じゃないですか! みんな玉芳花魁を目指しているんですから……」
菖蒲は ため息をついた。
菖蒲は八歳の時に禿として玉芳の傍に就いていて、もう五年になる間柄である。
「そろそろ菖蒲も準備が必要だね……身体だけじゃなく、顔を知ってもらうのが大事。 しっかり準備しなさいね」
玉芳は自分の禿には立派になって欲しいと願っていた。
普通なら、 “いつかは自分を蹴落《けお》とす ” ライバルとなるが、玉芳はそんな性格ではなかったのだ。
「姐さんは、本当に優しいですね……」
「そうかしら?」 玉芳はキョトンとしていた。
「そうですよ。 だから、みんな姐さんみたく上品で優しい花魁となりたいと思っているのです」 菖蒲が言っている時、バタバタと音がした。
「まさか……?」
玉芳と菖蒲はドキッとする。
「また壺《つぼ》を割りやがった!」 采の怒鳴り声が聞こえた。
「し、失礼しんすっ!」 梅乃が玉芳の部屋に駆けこんできた。
“ポカン…… ” 玉芳と菖蒲は顔を見合わせる。
すると、 「梅乃は何処に行った?」 采が玉芳の部屋に来て
「いえ……来てませんが、梅乃が何かしました?」 玉芳は采に訊《たず》ねると
「あのガキ……またホウキで遊んで壺を割りやがった」
采は怒っていた。
「クスッ― 私が店の壺を弁償しますわ♪ 新しい壺を買ってきましょう」
玉芳の言葉に、采はブツブツ言いながら戻って行った。
そして、コソーっと奥から梅乃が出てきた。
「すみません、花魁……」 梅乃は玉芳に謝った。
「いいのよ!」
「では、花魁にコレを差し上げます」 梅乃は禿服の胸元から何かを取り出した。
「何それ?」 玉芳と菖蒲は、梅乃の手を覗き込んだ。
「コレです」 梅乃は手を広げ、手の中にいた蝶《ちょう》を見せようとしたが、蝶は圧《お》し潰されており、ペチャンコになっていた。
それを見た玉芳と菖蒲は、後ろに倒れてしまう。
「あれ……?」 梅乃はポカンとしていた。
梅乃は、後に菖蒲から説教をされていたのは言うまでもない。
そんな無邪気な梅乃の物語は続くのである。
第三十八話 逆襲「こんにちは~」 梅乃が挨拶をする。この日は赤岩と往診に出ている。「あ~ 梅乃ちゃん、いらっしゃい。 先生もありがとうございます」そう言って、妓楼の中に入れてくれたのは小松崎である。以前、大量の足抜により頭を抱えていた『小松屋』の店主である。梅乃の活躍によって足抜は無くなり、見世を維持できていた。そんな小松屋が三原屋に往診を依頼してきていたのである。赤岩と梅乃が大部屋に入ると 「一列に並んでくださーい」 梅乃は早速、妓女並ばせる。(すっかり手慣れたもんだな……) 赤岩がクスッと笑う。「では、始めます」 赤岩が言うと、梅乃が妓女の服の下を確認していく。「異常なし……こちらも異常なし」 梅乃のチェックは回を重ねる毎に早く、そして正確になっていた。その時、「ん? これは……」 梅乃が悩み出す。「梅乃、どうかしたの?」 赤岩が声を掛ける。「先生、コレなんですが見たことないのがあります……」「どれどれ?」 赤岩が見ると、妓女な身体にはアザとは違う青緑がかった模様が出ていた。「これ、何だったかな……?」 赤岩が考えていると、「もしかして、緑膿菌ですか?」 梅乃が言う。 赤岩は絶句する。何年も医者をやってきている赤岩より、梅乃の方が早くに言葉にしたからだ。「梅乃ちゃん、どうしてこれを……?」「へへっ 先生の本を読んでました」 梅乃が鼻の下をこすって笑う。(なんて子だよ……)「それで、どう対処するんだっけ?」 赤岩が聞くと、「とりあえず栄養のあるものを食べて、免疫を高めるとか……」「そうか……」 これでは梅乃の方が先生になっているようだ。緑膿菌は傷口などから発生する感染症である。現代と比べて衛生的に悪かった時代、感染する者は多かった。しかし、明確な治療が無かった為、『栄養を摂る』しかなかった。こうして小松屋の診察が終わった。「先生……ありがとうございます。 それと、梅乃ちゃん……前もそうだが、本当に世話になってるね。 ありがとう」 小松崎は梅乃の手を握って感謝していた。小松崎は、お茶や茶菓子を赤岩と梅乃に出す。「すみません。 わざわざ……」 赤岩が頭を下げる。「いただきます」 梅乃はパクパクと食べ出した。「梅乃ちゃん、本当に世話になったね~ こうして見世の主を続けられるのは梅乃ちゃんのお
第三十七話 無《む》宿《しゅく》明治五年、七月。 玉菊灯籠の時期がやってきた。「今年はどんな模様にしようかな~」 梅乃が言うと、古峰が横でソワソワしている。「どうしたの?」 「う、梅乃ちゃん……今年は私もやりたい」 古峰がソワソワしていたのは、灯籠の模様を描きたかったからだ。「一緒にやろう♪」 梅乃が古峰に筆を渡す。「おはよう。 朝から頑張ってるな~」 そう言ってきたのは片山である。「潤さん、おはようございます♪」 梅乃と古峰が挨拶をすると、「あれ? 小夜は?」 片山がキョロキョロする。「小夜は馬で休みながら、中で仕事してる~」 梅乃が説明する。「そろそろ梅乃もじゃないか?」 片山が言うと、梅乃が睨む。「い、いや……そういう訳じゃ……」 片山は妓楼の中に逃げていった。「う 梅乃ちゃん……馬、まだなの?」 古峰が聞くと、梅乃は小さく頷く。「一緒だね♪」 そう言って古峰が抱きついた。古峰が灯籠の下絵を描いていく。「古峰、絵が上手だね~」 梅乃が横から覗き込み、古峰の才能を褒めると「ありがとう。 私、親からも相手にされなかったから地面に絵を描いていることばかりだったの……何か言うと叩かれたし……」古峰は、顔を下に向けて話していた。「でも、これは凄い才能だよ」 灯籠の下絵を見て、梅乃は頷いていた。そして玉菊灯籠が始まる。 「今日は忙しくなるからね!」 梅乃が言うと、「小夜ちゃん、出来るかな?」 古峰は心配している。「は~はっはっ。 私は大丈夫だよ」 笑顔で小夜がやってきた。「元気になったんだ」 古峰が笑顔になる。「でも、なんか機嫌が良くない?」 梅乃が不思議そうな顔をすると、「じゃじゃーん♪ お婆が新馬を作ってくれたんだ♪」小夜が、ご機嫌で着物の裾をまくると、サラシで作ってもらった新馬を見せる。「そんなもん、見せるなよ~」 梅乃が大声で叫ぶ。三原屋の前の飾り付けが済んだ三人は、大部屋で妓女の手伝いに入る。今回は、二階の部屋を与えられている四人も昼見世に参加することで、梅乃たちは中級妓女が居る二階に来ていた。そして、梅乃が花緒の部屋に入る。「花緒姐さん、失礼しんす」 花緒の部屋を開けると、花緒が泣いていた。「どうしたんですか?」 梅乃が驚き、花緒に声を掛けると「この玉菊灯籠の時期って、寂しくなるん
第三十六話 栞《しおり》赤岩が復帰してから二週間が経つ。桜の花も散り出す頃、梅乃たち三人が並び「みんな、よくな~れ」 そう言って “ニギニギ ” をしている。そんな中、赤岩は岡田に蘭方医術を伝えていた。「ここの腑《ふ》ですが……」 ※腑は内臓のこと医学書を使い、岡田に説明をしている。岡田も必死に学んでいく。その途中、「そして先生…… 先生の病とは、どんなものなのでしょう……?」岡田の質問に、赤岩は黙ってしまう。「先生?」「あっ、すみません……」 慌てたように赤岩が謝る。「先生……」 「私の病は貧血なんです。 それも悪性の」 赤岩が話すと「先生― 戻りました~」 梅乃が赤岩の部屋の前で声を出す。この声で赤岩と岡田が黙ってしまう。梅乃が赤岩の部屋の戸を開ける。「赤岩先生、岡田先生もいたのですね。 今日も教えてもらえますか?」梅乃が無邪気に医学を教わりに来る。「そうだね。 今日は何を勉強しようか?」 赤岩が微笑む。 岡田は現実を知りながらも、二人の未来を見守っている。 「梅乃、古峰と買い物に行っておいで」 采がメモを渡すと 「はーい」 梅乃は、読んでいた本を閉じて立ち上がる。 そして買い物に出掛けた梅乃と古峰は、仲の町で手をつないで歩いていく。「ねー 古峰、赤岩先生って具合悪いのかな~?」 梅乃が突然言い出す。 「な なんでそう思うの?」 古峰が聞くと、 「この前、長岡屋で倒れてから岡田先生が居るでしょ。 なんか赤岩先生が悪いから岡田先生が診ているような気がするんだ……」「……」 これには古峰も黙ったままだった。 古峰も薄々と感じていたが、必死に誤魔化している赤岩の姿を見ていた。 この事は知らないフリをしている。 「こんにちはーっ 買い物に来ましたー」 元気よく千堂屋で声を出す梅乃。 「こんにちは梅乃ちゃん、古峰ちゃん」 野菊が挨拶をすると 「こちらの物をお願いします」 梅乃がメモを渡す。 しばらく千堂屋で時間を過ごした。 すると、客の声が聞こえる。「聞いたか? 長岡屋で医者が倒れた話……」そんな声が聞こえ、梅乃が耳を傾ける。(マズイっ―) 古峰は焦った。 そして、「う、梅乃ちゃん……コレ、綺麗だね……」古峰は、梅乃の耳を遮るように話しかける。「えっ? どれ?」 梅乃が古峰に顔を向
第三十五話 優しい嘘明治六年、 春真っ盛りで桜の花が眩しいくらいに咲いている。「みんな、よくな~れっ!」 梅乃が声を出すと、両脇の小夜と古峰が“ ニギニギ ” をする。桜の木の下での約束は健在である。誰かが大変であれば、 “ニギニギ ”をして励ます。こんな毎日を過ごしていた。「いたいた~」 梅乃に声を掛けてきた女の子がいる。絢である。「梅乃~、小夜~、えっと、誰だっけ?」 絢が笑って誤魔化していると、「絢~ 古峰だよ~」 梅乃が言う。「そうだった」 絢は古峰の名前を忘れていたようだ。「お昼前に会うの、久しぶりだよね~」 絢が言い出すと、「今は誰に付いているの?」「今は瀬門《せもん》姐さんに付いているの」 絢が答える。絢は、鳳仙に付いていたが癌で引退をしてしまい、そこからは瀬門という妓女の元で学んでいるらしい。「そうなんだね。 瀬門さんって、どんな人?」 小夜が聞くと、「まぁ、鳳仙花魁みたいな派手さは無いけど、色々と教えてくれるんだ~」絢は笑顔で話す。そんな話をしていると、少しの違和感が出てくる。「絢、ちょっとゴメン……」 梅乃は、絢の腕を掴んで禿服の袖《そで》をまくった。「―っ」 絢は驚いたが、一瞬の事で抵抗ができなかった。すると、袖の下から無数のアザが出てくる。「絢……」絢は急いで袖を元に戻す。「見なかった事にして……」 絢が視線を逸らして言うと「うん……なんで禿って、こうなんだろうね……」 小夜がボソッと呟く。絢は、目に涙を溜めていた。「よし、みんなでやろう!」 梅乃が言うと、四人で並んで桜を見つめた。そして、手をつなぎ “ニギニギ ”をして「絶対に花魁になろう! 辛くても、頑張ろう。 みんな、よくな~れ」絢も笑顔になって、ニギニギをする。「これ、なんか元気になるね♪」 絢は喜んでいた。こうして絢は鳳仙楼に戻っていった。その後ろ姿が見えなくなるまで梅乃は絢を無言で見送る。そして、三原屋に戻ると「お前たち、どこに行ってたんだい?」 采が言う。「すみません。 桜を見に行っていました―」 梅乃が元気に答えると、「そうか…… 梅乃、赤岩と一緒に往診に行っておいで。 小夜は勝来に付きな。 古峰は信濃に付くんだ」 采は今日の仕事を言う。梅乃が赤岩の部屋の前に来ると、「失礼しんす。 梅乃で
第三十四話 わらべうた深夜、梅乃が目を覚ます。それに小夜が反応して目を開けると「どこに行くの? 梅乃……」「小用……」 そう言って梅乃は布団から出ていく。しばらくして梅乃が戻ってくると「私も行ってこよう……」 小夜も立ち上がり、小用を済ませにいく。妓楼の大座敷の奥がトイレになっており、トイレの壁の向こうは外になっている。小夜が小用を済ませると、壁の向こう側から声が聞こえてくる。(こんな時間に、誰だろう……?) 小夜は気になっていた。そこから声がハッキリと聞こえてくる『通りゃんせ 通りゃんせ……ここはどこの細道じゃ……天神様の細道じゃ……』(こんな時間に、誰……?) 小夜の背筋が震える。そして小用を済ませた小夜が梅乃に話しかける。「梅乃、梅乃……」 「んっ? どうしたの? 小夜」 梅乃が薄っすらと目を開けて言うと「なんか出たみたい……」小夜が言うと、梅乃が『ガバッ』と起き上がる。「えっ? マズいな~」 梅乃が呟くと「マズい?」 小夜が首を傾げる。「だから、オネショでしょ? お婆に叩かれるよ~」 梅乃が頭を抱える。「えっ? オネショしてないよ……」 小夜が目を丸くすると「だって、「出たみたい」って……」 梅乃がキョトンとする。「あっ、それか……って、そうじゃない! 便所の壁の向こうから歌が聴こえたのよ~」 小夜の口調が早くなる。「歌? どこかの酔っ払いじゃない?」 そう言って、梅乃が布団の中に潜ると「そうじゃないのに……」 小夜は気落ちしてしまった。翌朝、梅乃が目覚めると、小夜は布団に居なかった。(小夜、早起きだな……)梅乃も起きて、布団を畳む。「おはよう」 古峰が声を掛けると「おはよう♪ 小夜、見なかった?」 「さ、小夜ちゃんなら外に出ていったよ」 古峰が説明をすると、梅乃も妓楼の外に出て行く。「小夜~」 玄関を出て、声を出しても小夜の返事がない。そして妓楼の裏手に回ると、「いた。 小夜~」 梅乃が声を掛ける。「梅乃……」 小夜の表情は暗く、落ち着きもなかった。「小夜、どうしたの?」 「昨日の……歌が気になって」 小夜がキョロキョロと周囲を見回すと、梅乃もキョロキョロとする。「それで、どんな歌だったの?」 梅乃が聞くと、「通りゃんせ……」 小さく答える。「通りゃんせか……小さい頃
第三十三話 紅《べに》冬も終わる頃、昼間の暖かさを感じれるようになってきた。そして、頬に温かさを残している者がいる。片山である。片山は、鳳仙が触れた頬の感触が忘れられずにいた。『ボーッ……』 仕事をしているものの、少しすると鳳仙を思い出しては こうなってしまう。(重症だな……) 禿の三人は、遠目で見ていた。「古峰~ ちょっと……」 妓女のひとりが古峰を呼ぶと「は~い。 姐さん、行きます」 そう言って大部屋に向かう。玉芳が厳しく言ったことから、禿に厳しく言うことは減っていた。古峰も段々と警戒は薄れ、返事も明るくなっていた。(やっぱり玉芳花魁は凄い……) 梅乃の理想は玉芳であり、いつかは玉芳のようになりたいと思っていた。昼見世の時間、妓女は張り部屋に入る。ここで顔を売り、夜に指名を貰う為である。段々と暖かくなり、人足も増えてきたころ「古峰も中に入りなさいな~」 そう言って、張り部屋に古峰が引きずり込まれる。「あ、あの……」 口下手な古峰は、上手く断れずにいた。そして、妓女の一人が化粧道具を持ち、古峰に化粧をする。「あわわわ……」 化粧をされるのが初めてな古峰は、言われるがまま流されていった結果……「えっ?」 全員がポカンとする。 「あの……何か?」 古峰が不思議そうな顔をする。「お前……鏡、見てごらん」 妓女が鏡を古峰に見せると「誰だ……?」 古峰自身も驚いていた。顔立ちが濃く、ハッキリしていて目が大きく大人っぽい古峰に全員が黙った。古峰が どうしていいか分からず “チラッ ” と、梅乃と小夜を見ると(なんか勝者の顔に見える……) 梅乃と小夜は、ショボンとして歩いて行ってしまった。(えーっ? 助けてくれないの?) 古峰は見捨てられたような絶望感を味わっていた。その後、妓女の玩具《おもちゃ》にされた古峰は、バッチリメイクのまま過ごしていくことになる。張り部屋に居た古峰に指名が入るほどの変貌ぶりに(なんか負けた気がする……) 仲の町を歩く梅乃と小夜は落ち込んでいた。「梅乃~ 小夜~」 呼ぶ声が聞こえ、二人が振り向くと「何、しんみりと歩いているのよ~」 声を掛けたのは鳳仙である。「鳳仙花魁……」 梅乃が小さい声で言うと、「さっきから何なのよ~」鳳仙が茶屋に誘い、梅乃と小夜の三人でお茶を飲む。「……そ